罅割れた日々
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視界が蠢き/死海が疼いた。
遠くから聞こえるのは可憐な讃美歌。
頭を擡げて三角形の過度に尖った角を撫でる。指先の鍵爪が悲鳴を上げ、途端に黄土色の血が流れる。
世界がうねり。
悪趣味な色使いのそれは極彩色。
緑色の雲は螺旋を描き。
犬は自分の尻尾を咥えてそのまま自分に喰われていく。
可哀想に、と涙を流すと、こぼれ落ちた雫は手首になってタップを踏んだ。床に寝そべって窓を見上げると、見下ろした薄紫のアスファルトに正座した星座が狂ったように嗤う。
ひどく、愉快。
部屋の中は全てが歪んでいる。脚の長さがチグハグな椅子は柔らかな机にしなだれかかり、噛み付き、躰を絡め―――ああ、これはこれで。うん、かなりいいね。ふと見れば床には割れた斑の卵の殻が産卵している。その中で一本、人参がくるくると踊っているのが滑稽だ。
化粧の剥げかけたピエロが俺の側にしゃがみこんで無邪気に笑った。
「やあ。オマエ、ちゃんと生きてる?」
―――そこで、夢が融ける。
1
気が付くと、一人倒れていた。
身体を起こし、目を擦りながら周囲を見回す。綺麗に掃除されたフローリングの床にブラインドの隙間から漏れた真冬の陽光が数条の線。僅かに開いた窓の隙間から冷たい風が吹きこむと波のように揺れる。自分でもなぜ買ったのか解らない哲学書や原語の本が並ぶ整頓された本棚。壁に磔にされて観念したのか今日も黙々と時を刻む時計。
何と云うことは無い。見慣れた、ついでに住み慣れた自分のアパート。独り暮らしには少し広過ぎるという以外、特に不満はない。
「………痛っ……」
突然の鈍痛に顔を顰める。頭が痛い。喉が乾いてる。ついでにまだ眠い。
息を吸い、目を強く閉じる。唐突に感じる微かな吐き気。瞼の裏は斑な虚で、どうにも落ちつかない。規則正しい時計の音も鬱陶しい。
しばらく目をつむって再び開くと、少しはマシな気分になっていた。溜め息を吐いて、そこで始めて自分の姿を見る。灰色のシャツに、着古して灰色になっている元は黒だったジーンズ。陰気な、少なくとも俺が街で見かけたら絶対に顔を背けるような辛気臭い格好。首に感じる冷たい感触は去年の誕生日にもらった翼を模したシルバー。見えないが、きっと耳にはシンプルなピアス。どちらも手入れをしていないせいで輝きなどとうの昔に淀んでいる。
何もかもがいつも通り。目覚め方から状況を理解する順番まで、慣れきった作業に淀みは皆無。
痛む頭に苛立ちを感じながら、そのままの姿勢で昨日の記憶を辿ろうとして、やめた。昨日だろうがその前だろうが関係なく、ここ最近は同じような生活しかしていないのだから。その証拠ですら、ほらいつも通り。
何気なく床に下ろした手に、使い捨ての注射器が触れて乾いた音を起てる。
壁の時計は夕方の五時過ぎを指している。夜と云うには少し気が早いし、しかしまだ昼かと云えばそれも違う。どうにも中途半端な時間だ。
「……飯でも食べるか」
茫洋とした思考の辿る指向も、いつも通り。
何となく、この街はひどく自分に似合っているのだろう。
どこか他人事な活気や、雑音一歩手前で曖昧な境界を引き続ける喧騒。道の隅で面倒臭そうに欠伸をする黒猫。
曖昧で胡乱。茫洋としていて覚束ない、微温湯に浸っているような変化に乏しい日常が許されている。変化や進歩がなくても生きていけるということはありがたいこと。それを『生きて』いると呼べるのかどうかはさておいて。
考えても詮無いことだ。だからそれ以上考えない。実に簡単な解答式。
思考を停めて灰羽恭一は人の流れからはぐれる。
路地裏をしばらく進んだところにある、酒場への小さな入り口。繁華街からそう離れた訳でもないのに、世界はそこだけ切り離されている。静かな騒がしさの断片を引きずり、そっと扉を押し開いた。
階段を降りた先の陰気な酒場には耳障りなラップ。知り合いたちの挨拶に軽く手を挙げて答えてカウンターに座り、今では顔見知りになった主人に注文をする。ここにはメニューなんて気の効いたものはない。飲み物か食べ物という二通りの注文以外、無口な店主は受けてくれない。流石にヤクルトを出されたときには困惑したがそれも今ではいい思い出になっている。
数分後、出されたのは琥珀色の酒と炒飯だった。まあいいかともそもそと咀嚼する。
最初の一口を口にしてからさほど時を置かず、気分が昂揚してくる。出される物には全て何かしらのドラッグが入っているのはこの店ならではの気の効いたサーヴィスだ。
「ねえ、一人?」
七色に輝き出す世界。いつの間にか隣りにいた女が俺に微嗤む。
「ああ」
「なら隣りは空いてるのよね? 私も独りなのよ」
普段なら断っただろう。誰かと一緒に話をするなんてガラじゃない。
それでも頷く気になったのは俗な理由で、要はその女がタイプだったからだ。短く揃えられた髪に猫のような瞳。まるで家出してきたばかりのような衣装が良く似合っている。
どうせ向こうもそのつもりで声をかけてきたんだろう。気がねする必要はない。
「ああ―――丁度、独りで寂しかったんだ」
いくらか酒も進み、世界がモノクロに染まってきた頃、俺にしなだれかかってきた女が耳元で囁く。
「―――ハイイロ」
小さな吐息にさえ似たその一言は緩やかなラップに吹き消される。
「なに、なんか言った?」
「あなたってさ、何でハイイロなの?」
「……灰色? 何が」
「何がって、あなたの色のことよ。上も下もアクセも全部まとめてハイイロじゃない。趣味かなにか?」
「真逆。そこまで悪趣味じゃない。別に理由なんて―――」
「嘘。理由もなくそんな地味な色で統一するわけないでしょ。ほら、さっさと吐いちゃいなさい」
ふざけて掴みかかってくる女を軽くいなしながら本当にこみ上げてきた吐き気を抑える。なんだかんだ言って俺も酔ってるらしい。薬にかアルコールにか―――いや、おそらくはそのどちらにもだろう。
「さあ、知らない―――ああ、きっと知らないからだよ」
「知らなかったらなんで灰色なのよ」
「自分に何が似合うかだって知らないんだ。生憎家には鏡が無くてね。はっきりとした色を着て外で鏡を見てもし可笑しかったらショックだろ? だから胡乱な色を着てる、んだと、思う。だって無難だしな」
「ちょっとはチャレンジ精神を持ちなさいよ。そんなんじゃいつまでたってもあなたそのままよ?」
「俺のことなんてどうでもいいだろ。服なんてどうせ脱いだら一緒なんだ」
面倒臭くなった俺の極論に、女はあ、そっかと納得した。
静かにグラスを傾ける女に悟られないよう、俺はそっと視線を外す。
きっとその通りだ。
何も知らなくて、無知なまま、一番の怖がりだからこそ、俺はまだ此処にいる。
段々と喧騒が遠くなる。知らないうちに店の客はかなり少なくなっていた。その残り少ない客もぼそぼそとお喋りに夢中で、店の中は本当に、静か。
「ねえ」
「ん―――なに」
女の呼びかけに跳びかけていた意識が戻る。身体を動かすと、半ばまで満たされたままのグラスが溶けかけた氷とぶつかって華乱と澄んだ音を起てた。
「あ、寝てた?」
「別に。ちょっと呆としてただけ。……で、なに?」
「あなたさ、名前なに?」
今更になって、お互いまだ自己紹介も済ませていないことに気付く。結局のところ、人間が二人しかいなかったら名前なんてどうでも良いと云うことなんだろう。俺とあなたと云う、実に代名詞な単語二つで二人は明確な区別を受ける。アダムとイヴなんて所詮はカミサマがいたから必要だっただけだ。
何でもないことも、茫洋とした意識で考えるとひどく滑稽だった。
「俺の名前なんか訊いてどうするつもりだよ」
「飽きた」
「ああ?」
「だぁかぁら、いい加減あなたって呼んでるのに飽きた。だから名前、教えて」
「成る程、そいつは確かに教えないわけにはいかないか―――」
だって世界に二人しか人間がいないなら、難しいことなんて考えるまでもなくその片方の意見はお互い尊重しないといけないだろう。さらにその片方が女ならその意見が拒否される理由なんて欠片もない。世界はそう云う風に出来ているのだから。
「ハイバネ。灰羽恭一」
「廃羽?」
グラスに浮かんだ水滴で字を示す女はうっすらと笑っている。
「わざと不吉な字に間違えるな」
「じゃあ、這羽」
「B級ホラーみたいだろ、それじゃあ。灰色に羽で灰羽だよ」
「灰羽? へえ、名前も灰色なんだ。じゃあ腐れ縁ね、それ。きっとあなた一生そのままよ。変えられないモノまで曖昧なんじゃあ、先が見えてる」
けらけらと軽薄な嗤い声をあげる女に顔をしかめて残っていたグラスの中身を一気に飲み干した。
「せっかく名前を教えてやったんだ。ちゃんと名前で呼べよ」
「んー、訊いてから解ったんだけどさ。やっぱ慣れた呼び方から変えるのって難しいね」
「……はあ。いくらなんでもそれは―――」
ないだろ、と言おうとしたのだろう。恐らく。
昏理、世界が揺れる。
唐突に訪れた限界に融けていく意識を手繰りながら、最後の視界に彼女を収める。
粘着質な光沢を放つグラスに浮かぶのは掌大の髑髏。ささくれだった皮膚に爪をたて、斑が浮いた腐った腕の爪が爆ぜる。真っ赤に熟れた内腑はそこだけ柘榴のように新鮮な甘い香りを漂わせていた。単眼症の胎児を背景に女は不満げに頬を膨らませる。
「何寝てるのよ、もう。まだまだこれからでしょ?」
ゆっくりと。倦怠感にも似た、心地良い睡魔の陵辱。
優しく顔を綻ばせて。
「ほらちゃんと身体起こして。もう―――オマエ、ちゃんと生きてる?」
ピエロが、ワラッテ/世界が、極彩に染まる。
ラップは荘厳な讃美歌へと変わり。空気は一瞬にして酸化する。脚に群がるのは虹色の麒麟たち。栄光の名の元、断罪の如く人の肢肉を無断で貪っている。持たれかかった机は極微の繊毛が蠢きその様はまさに風揺れる砂漠。堕落した伽藍は月世界へと変態する。何本もの鍼が貫くのは皿に横たわる眼球。ひどい話、片目がなくて穿たれた穴からこぼれる漿が鬱陶しい。仕方がない、自分の物のようだからこいつは俺が食わないと。出された食べ物は残しちゃいけない。幼い頃に教えられた通り、丸ごと口に詰めこむ。甘酸っぱい蜜柑味。滴る汁が服を汚す。しまった、怒られる。早く食べないと。急いで噛むたびに視界が何度もシャッターで区切られて酔いそう。鍼が歯茎を突いて痒い。抜こうとして、間違えて指を噛み切った。柔らかい関節部の軟骨がぼろぼろと剥離する。もう口の中は一杯だ。仕方なく一気に嚥下すると、喉の痛みに涙が浮かんできた。
シャツの袖で口元を拭い、立ちあがろうと振り向いたところでいきなり人参を付き付けられた。
「や。元気?」
剥げかけた化粧のピエロ。間近で見ると意外と可愛かったりする。
「で、そろそろ飽きてきたんで答えを聞きたいんだけど」
「飽きたって……まだ二回しか訊かれてないぞ」
「そうだっけ。つか律儀に数えてたの? ……まあいいじゃん。兎に角、飽きたのはほんとだから」
マイクのつもりか、人参を器用にくいっと一回転させ、これ以上ないくらいの華やかな笑顔を浮かべて。
「―――オマエ、ちゃんと生きてる?」
ひどく毒がなくて、
無邪気さに溢れていて、
日々悩むことすらバカバカしくなってくるような笑顔に気圧され、
つい、本音が漏れた。
「……まあ、それなりに」
刹那、ピエロの笑みが崩れる。
それも一瞬。気の所為かと思う程度には時を置かず、ひどく優しくて柔らかい微笑みに変わった。
「そか。そりゃあ良かった―――」
その微笑みを、ずっと昔に見たような気がする。
気の所為だろう。
曖昧な記憶で生きている俺が、揺り籠の思い出なんて持っているわけがない―――。
2
気が付くと、独り倒れていた。
知らない間にソファに運ばれていたらしい。柔らかな感触と体温で暖められた人工革の温度が心地良い。軽い頭痛。身体を起こすと同時に迫る眩暈に俯き、重い溜め息を吐く。
しばらくそのままの姿勢で眩暈が収まるのを待つ。昏々と波のように巡る眩暈は、じっとしているとやがてゆっくりと途切れていってくれた。閉店時間はとっくに過ぎているだろうに文句一つ言ってこなかった店主に礼を言い、俺は酒場を後にする。
背後で黙々とグラスを磨く店主がひどく印象的だった。
知らないうちに迎えていた朝。夜明けの曇り空はいつも通り陰鬱なハイイロ。
店の入り口で一度凝った身体を大きく伸ばし、溜め息と冷たい空気を交換してゆっくりと歩き始める。
いつも通りの裏路地を抜けた先、いつもと変わらぬ朝の光景。近い聖夜に僅かに心躍らせながらも忙しく流れる人々を目にしてふと足を止める。
足早に道を急ぐスーツ姿。楽しげなお喋りに花を咲かせる学生たち。
いつも通りの、日常のカタチ。
「………」
それを見て、思わず深く、いかにも重たげな溜め息を漏らした。
止めていた足を動かし、人並みの人波に紛れる。
名も知らぬ人と擦れ違い、見知らぬ人と肩を擦り合せ、素知らぬ顔で間を擦り抜けながら、灰羽恭一は罅割れた日々を生きている。
それなりに曖昧で、
ひどく胡乱で、
人一倍に茫洋なまま、
死んでいけるならそれもまた生きていたと云えるのだろう。
それも、いつまで続くかなんて知らない。
何にでも答えが与えられるほどこの世界が甘くないということくらい、何も知らないハイイロな自分だって知っているはずだから。
……やがて、ハイイロが人ゴミに融けた。
一瞬人波が乱れるものの、すぐにまた一つの流れになって人々は各々の目的へ向かう。
その中で、友人たちと語りながら歩いていた少女がふと立ち止まった。友人たちはお喋りに夢中なのか気付かない。
目元まで隠れる大きな帽子をかぶっていた少女は、友人たちに取り残されていることにも構わずしばらく彼の消えた方を見ている。
唐突にこちらを振り向き。
帽子を指で上げて、剥げかけた化粧のピエロがひどく暖かな微笑みを浮かべて―――
―――Are you alive?
Cracked days/closed.