Torso
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こんな日々を、いつか貴方も笑顔で迎えることが出来ますように。
閑話/祝福−Birthday song
孤児院の朝は早い。
まだ暗いうちから―――とはいえ言うほど明るくなることなどないのだが―――子供たちは起き出し、年長の子供はマリーツィアと一緒に自分たちや年下の者の食事を作る。まだ幼い子供たちも洗濯や掃除といった何かしらの家事を受け持ち、そしてそのことに誰一人として不満は言わない。恐らくは知っているからだろう。自分たちが生きていること自体が、すでに奇跡に等しい幸運であることを。弱者は強者に喰われるのが当然の世界。まるでチープムービーのような"当たり前"。彼らがこなす日々の作業は、その幸運を持続させるための儀式になっているのかもしれない。
だからこの孤児院で朝早くから物音がしているのは別におかしなことではない。それは俺がここに訪れた時にはすでにここにあった、当たり前の日常の音だ。
―――日常の音、なのだが。
「………朝……か…?」
ふと感じた気配に俺はうっすらと目を開いた。ずっと廃棄街で寝ていたせいかそれとも記憶を失う前の俺の性質だったのか、俺は気配に敏感だ。その性質はこの孤児院で暮らすようになってからも変わることはなく、俺の目覚めは悪夢にうなされての物、そして皆が起き出す気配に気付いての二種類しかない。どうやら今日は後者のようだったが、どうにも様子がおかしかった。
扉の向こうに聞こえる、いつもは静かな足音はやけに早く、子供たちの微かな会話は囁き合いの域を越えて雑談になっている。当番の者たち数人にしては随分と音の数が多い。
何かあったのだろうか。ここが普通の街なら―――廃棄街とまではいかなくともこの世界の街の治安は概ね悪い―――盗賊の類も考えられるが、この珍しく暢気な町でそうそうそんなことが起きるとも思えない。俺への刺客の類が一番可能性は高いだろう。だが殺気を持った人間が侵入すれば子供たちより先に俺が気付いているだろうし、殺気を隠せるような相手なら俺は目覚めることなく死んでいるはずだ。
「………起きるか」
考えていても仕方ない。実際に見てみれば分かることだ。それに一度目覚めてしまうともう寝直すことは出来そうになかった。
身を起こすのに気付いたのか、いつの間にかベッドに潜り込んできていた翡翠の少女が隣で目を擦りながらもぞもぞと起き出してきた。構わず服に袖を通して枕元の銀の銃身をいつものようにズボンの後ろに挟む。
窓を見ると、昏い空はまだ闇の気配を濃く残していた。
「あ、ギルィさん、おはようっ」
「おはようございます、ギルィ=ストーク」
食堂へ続く廊下の途中、マリーツィアとフィアに出くわした。二人とも両手一杯に見慣れない飾りを抱えている。
「マリーツィア。何の騒ぎだ」
「ギルィさん、朝のご挨拶は『おはよう』だよっ」
「……おはよう」
「よろしい。おはよっ、ギルィさん」
何が嬉しいのか満足げに頷くフィア。それを見ていたマリーツィアは、
「起こしてしまいましたか。まだ寝ていても良かったんですよ」
「構わない。質問に答えてくれ」
「今日は―――」「誕生日だよっ」
マリーツィアを遮ったフィアの言葉に一瞬思考が疑問で埋まる。それくらいにその単語は俺に馴染みが薄いものだった。
「誕生日?」
「ええ。今日は皆の誕生日を祝う日です」
訳が分からないといった顔をしていたのだろう。マリーツィアはフィアを促す。
「フィア、先に行っていてください。私も後からすぐに行きますから」
「はーい。じゃあね、ギルィさん」
抱えた飾りを落とさないように小さく手を振りながら去って行くフィアを視線で見送り、俺はマリーツィアに向き直る。
「どういうことだ」
「そのままの意味ですよ。本当は一人一人祝ってあげたいんですけど……ここもあまり余裕はありませんし。それにここにいる子供たちの大半は自分の誕生日を知らない子供ばかりです。だから年に一度、こうやって全員の誕生日を皆で祝うんですよ」
その日はいつもよりも早起きして全員で全員の誕生を祝う準備をするのだと、マリーツィアは表情はそのままに心なし楽しそうに言った。
「……そうか」
胸に微かな痛みを感じながら小さく頷く。
俺が失った過去、ギルィ=ストークという名前を得る前の俺も、誰かに誕生を祝ってもらったことがあったのだろうか。
「貴方も手伝ってください。準備の手はいくらあっても足りませんから」
促されるままに飾りの束を半分渡され、俺はマリーツィアの後に続いた。
ふと足を止めて背後を振り返る。
翡翠の少女が俺を見上げている。
いつもと変わらない、穏やかな常緑の瞳で。
子供たちはそれ自体を楽しそうに準備を進めている。
食事を作る者、食堂の飾り付けをする者、雑用に走り回る者。マリーツィアの指示に従い、サボる者もなく準備は進む。その中に混じっている自分にため息を吐き、俺は微かな疑問を何度も反芻していた。
頼まれた買い物を済ますために外を歩きながら思考に意識を向ける。
今日は皆の誕生を祝う日なのだと、マリーツィアは言った。
理解は出来る。誕生日というのはそういう物だ。この世界に生まれてきたことを感謝する日。この世界に生まれてきたことを祝福する日。
だが―――こんな世界に生まれてきたことは、感謝するべきことなのか?
俺にはそれが分からない。
誕生を祝福出来るほど、感謝出来るほどこの世界は綺麗なのだろうか。
昏い空。
諦観に沈んだ人々。
ゆっくりと滅びに近づくこの世界に生まれたことは、憎悪ならともかく感謝に値するだけの価値があるのだろうか。
それに―――そもそも、人は自分の生誕を喜んで生まれてきたのだろうか。
一人の生誕の裏には何億という犠牲がある。何億人もの可能性の中、最速で入り口に辿り着いた一人だけがこの世界への入場を許可される。俺にはそこまでして生まれるだけの価値がこの世界にあるのか、分からない。ないようにも思えるし、俺が知らないだけの価値があるのかもしれない。
赤ん坊が泣きながら生まれる理由は、何億人もの兄弟を殺した自分への悔恨、そしてその末に得た世界への絶望だと言った哲学者がいた。数多くの屍の山を築き上げた結果に得た世界が余りにも絶望に満ちているから、赤ん坊は泣くのだという。
―――コンナモノヲエルタメニ、コロシタワケジャナイ。
人は生まれた頃の記憶を失って成長していく。
もしも生まれた瞬間に感じた絶望を忘れてしまったのなら。忘れてしまったままで無邪気に誕生を祝うのだとしたら。
……それはどれほど滑稽で、悲しいことなのだろう。
「―――そうか」
足を止めて、ふと空を仰いだ。
これが―――悲しいということか。
胸の中に生まれたどうしようもないやるせなさ。苦しいとはどこか違う、今まで名前を知らなかった感情。
誕生日という喜びに満ちているはずの日にそれを知ったのは、それこそひどく滑稽だった。
マリーツィアはこの疑問の答えを知っているのだろうか。フィアは、マリアとアリアは、ジョルレイル、ミハイル、リディンは。俺が名前を覚えている数少ない者たちが脳裏を過り、さらに名も忘れた者たち―――俺が今まで殺してきた者たちを回想する。
彼らはこの疑問に答えを与えてくれるのだろうか。
ふと傍らを見ればそこにはいつものように、少し遅れて翡翠の少女がいる。
彼女は、決して語ることのない彼女は答えを知っているのだろうか。
「……くだらない」
その科白はもう何度目になるのか。
すべてを切り捨てるはずの言葉は、今ではもう枯れ果ててその力を失いつつあった。
裏付けを何一つとして持たない幼稚な言葉ではどうにも出来ないくらいに、俺の中に生まれた何かは成長し過ぎてしまっている。
「………」
沈黙のままにため息を吐き、俺は解答を得ることを諦めて歩を進めた。都合のいい話だ。今まで気に留めたこともない疑問に、すぐに氷解してほしいなどと思うなんて。すべての問いに分かりやすい解答が与えられるほどこの世界が優しくないことくらい、何も知らない俺だって知っていたはずだった。知っていたから、今までも疑問を疑問と思うことなく生きることが出来た。
間違いなく俺は以前よりも弱くなっている。一つ得るごとにゆっくりと、だが確実にその答えは俺を侵食する。そのプロセスはひどく怖くて、だからこそ今まで目を向けることを無意識に避けてきていた。避けていたから俺は強くあれた。
自分自身を削ってまでそれを知ることは、果たして必要なことなのか。
ぽたり、と首に冷たい物を感じて空を見上げた。
昏い空から、雨が振り出していた。
細かい霧雨は夜になっても止まなかった。
「では、始めましょう」
それなりに綺麗に飾り付けられた食堂。席に着いた子供たちのざわめきがマリーツィアの言葉に静まる。白いクロスのかかったテーブルの上には粗末だがいつもよりも手のかかった温かな湯気を上げる食事が並び、一人一人に蝋燭が刺さった小さなケーキが配られていた。年長の少年が数人、テーブルを回って
蝋燭に火を灯す。やがてマリーツィアが明かりを消すと、食堂には十数本の蝋燭が照らす子供たちの影が揺れた。
「また一年、私たちは生きていることが出来ました」
暗い食堂。微かな雨音の中、マリーツィアの厳かな声が響く。
「そのことを誰に感謝するべきなのか、私にも分かりません。ですが、私たちはそれでも生きています。
そのことに―――今、私たちが生きていることに感謝しましょう」
子供たちは一言も発しない。
ただ僅かに揺らいだ影で、皆が頷いたのが分かった。
「では皆さん」
言葉が止まり、それを合図に皆が一斉に自分のケーキの蝋燭を吹き消す。
ちっぽけな炎は抵抗することなく消え、やがて食堂に本当の暗闇が訪れた。
そしてその暗闇の中に、マリーツィアの感嘆のような声。
「本当に―――お誕生日、おめでとう」
……。
「おめでとう」
「おめでとーっ!」
「おめでと〜」
「おめでとうっ」
「おめでとさん〜」
一気に暖かな喧騒に包まれる食堂。再びマリーツィアが明かりを付け、そして誕生会は始まった。
「ここにいたんですか」
子供たちの声が溢れる食堂から抜け出し、建物から張り出した屋根の守られた中庭のベンチに座って一人、何をするでもなく雨を眺めていた俺は、背後からかけられたマリーツィアの声に振り返ることなく僅かに手を上げて答えた。
「フィアが探していましたよ。……隣、いいですか?」
「勝手にしろ」
ぶっきらぼうな声に苦笑するとマリーツィアは俺の隣に腰を下ろした。見れば彼女は琥珀色の液体で満たされたグラスを二つ手にしている。
視線に気付いたのだろう。マリーツィアは少し恥ずかしそうに俺に片方のグラスを差し出した。
「子供たちと飲むわけにもいきませんから。よければいかがですか?」
無言で頷き、グラスを受け取る。
口にすると、薄いアルコールが喉を焼いた。
隣を見れば、マリーツィアがなぜか微笑みを浮かべて俺を眺めている。ふと芽生えた疑問を何気なく口にする。
「……最近、よく笑うな」
「そうですか?」
やはり無言で頷く。
俺がこの孤児院に来た時。俺が始めてマリーツィアに出会ったあの日、彼女がこんな風に笑うなんて思いもしなかった。俺の中の最初の印象は、真冬の湖面のような瞳だった。その無表情にも様々な色が含まれていたことに気付いていなかっただけだったと知ったのもごく最近のことだが、それを抜いても近頃の彼女はよく笑っている。もっともその笑顔は、何かを別の感情を孕ませたものでしかなかった。
俺はまだ彼女が、アリアのように笑っているところを見たことがない。
「そうかもしれませんね。最近は楽しいことが多いですから」
「楽しいこと?」
「ええ。手間のかかる子供が一人増えたせいかもしれません。何も知らなかったその子が色々なことを知っていくのが、とても嬉しいんです」
「……そうか」
「そういえばあの子はいないんですね」
「ああ。さっきフィアに捕まっていた」
翡翠の少女が俺の側にいないのはこれが初めてだ。少女はいつも俺を少し離れたところから眺めている。マリーツィアのものとは違う、本当に感情の見えない完全な無表情と完全な無言を保ったまま、翡翠の瞳を俺に向けて。いつもその無言に負けて引き下がるフィアなのだが、今日は場の雰囲気に助けられて普段よりも気が強くなっているのか、半ば強引に手を引いて仲間の輪に連れ込んでしまっていた。あの無表情な少女と共にいて笑っていられるのは子供の特権だろう。
グラスを口に運び、雨に視線を向ける。
雨は激しくもなく、しとしとと単調に地面を濡らしている。この分だと明日には止んでいるだろう。
……彼女は俺がなぜ食堂から抜け出したのか知っているのだろうか。
昼間の疑問を胸にしまったまま、幸せそうにお互いの生誕を祝う子供たちの姿に耐えられなかったことを知っているのだろうか。
雨は降り続く。
お互いの言葉を流し、世界を静かな沈黙で満たしていく。僅かに漏れる子供たちの喧騒も、その静寂を際立たせていた。
「―――欺瞞でしょうか?」
無言の時間を破り、マリーツィアがぽつりと言った。
言葉の意味はすぐに思い当たった。思えば俺程度が感じる疑問を長い間子供たちと過ごしてきた彼女が感じないはずもない。
俺が思うよりもずっと長い時間、今日という日を迎えるたびに彼女はその疑問を噛み締めていたのだろう。
「さあ。分からない」
そう答えるしかなかった。
「私にも分かりません。きっと誰に聞いても答えは得られないのかもしれません」
「……なら、なぜ尋ねる?」
マリーツィアは一度だけ言い淀み、そして小さく続ける。
「それでも答えが―――きっと私が納得出来る答えが、誰かから聞けると信じたいからです」
都合のいい科白だと人は嗤うのだろう。だが、そんな都合の良い科白すら吐けない人間に何が分かる? 答えを見つけることが出来ず、答えを探すことに疲れ、答えの存在を信じることすら出来なくなった者に彼女を笑う資格はない。
だから俺はただグラスをあおった。
彼女に答えを与えることが出来ないことが、なぜかひどく不愉快だった。
「………」
壊れていく自分を実感する。
久々に口にするアルコールのせいなのか、それとももっと別の何か、俺がまだ知らない名前を持つ何かが理由なのか。
理性はこれ以上口を開くなと言っている。これ以上何かを得ても、それはお前が弱くなるだけなのだと。だがそれは本当にそれだけなのか。一つの知識を得て―――それはただ俺を弱くしていくだけなのか。分からない。何も分からない。分かりたくもないのか、それすらもワカラナイ。
「……ごめんなさい、少し酔っているみたいです」
明らかに気を使っていると分かる謝罪と誤魔化し。
―――どうすればいい?
俺は何と言えばいい。
俺は何を語ればいい。
沈黙か? 今までのようにただ、流れるままの肯定でいいのか? 本当に俺は、俺の本心は本当に―――そうあることを望んでいるのか?
「子供たちが心配しているでしょうね。そろそろ―――」「―――ぁ……」
疑問が胸の中に吹き荒れて。
このまま彼女に何も言えないことはひどく"悲しい"ことのような気がして、まるで嗚咽のような小さな音になって自然と喉から溢れていた。
立ち上がったマリーツィアが怪訝そうに首を傾げる。
彼女がどんな表情を浮かべているのか知ることが怖くて、正面から見つめることが出来ずに俺は顔を背けて必死に言葉を手繰る。
子供が初めて喋るときのようにたった一つの言葉を探して、俺は―――
「―――やく、そく」
初めて―――自分の意思で、腐乱した自分に抵抗した。
「いつ、か……その、俺が答えを、知ることが出来たら、だから……!」
グラスを握る手がかたかたと震えている。喉はまるで痙攣を起こしたようにまるで声になってくれない。俺を縛る自分自身。今を肯定する俺自身が、その言葉を吐くことを否定している。
……そんな俺を、マリーツィアは静かに待っていてくれた。
焦燥に駆られ、それは今まで経験したことがないくらいに苦しいはずなのに―――その静寂は、なぜか不快ではない。
初めて知る心地よい沈黙に後押しされて、
「……お前にも、きっと教えてやる」
俺は、やっとの想いで、そう言えた。
「…………」
マリーツィアの沈黙は続いている。小さな、本当に小さな俺の声はやがて雨のしじまの中に消えていく。打って変わって訪れたのは後悔に似た感情だった。ありえない答えに対する約束などという、それこそ気休めにもならない科白。彼女が抱いている疑問はそんなもので解決するほど軽いものではない。それを自分自身で理解していながら必死で吐いた言葉がそれこそ欺瞞でしかなかった事実。それが俺を苛んでいた。
「……すまない」
忘れてくれ―――そう言おうとした、その時だった。
「―――約束ですよ?」
マリーツィアの囁きに俺は驚き彼女を見上げた。
「貴方がいつか答えを見つけたら、その時はきっと、私にその答えを教えてください」
優しくて暖かな、今まではただ不快でしかなかった空気。
「……ああ。約束、する」
それが今は―――
「では私は食堂に戻ります。貴方はどうしますか?」
「あ……もう少し、ここにいる」
そうですか、とマリーツィアは何事もなかったかのように歩き出す。それを見送ることなく再び視線を雨に戻す。
ふと喉に乾きを覚えてグラスを見れば、すでに琥珀は底に残るだけになっていた。
それを一息に飲み干し、
「……ギルィ=ストーク」
彼女の声にいつもとは違う何かが含まれていることに疑問を感じながらふと振り向くと、
「―――ありがとう」
……初めて見る微笑みを浮かべた彼女がそこにいた。
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