Torso


          〇          〇


 準備をしながら、ふと自分は何をしようとしているのだろうと思った。
 馬鹿げたことだ。
 まるで意味などない。
 あんなことでは何も感じないのだから。
 悲しみや後悔などまるで感じることが出来ない自分が、何をしようとしているのか、まるでわからなかった。
 それでも手は動く。
 一対の視線に見つめられながら、傷だらけの両手は黙々と動き続ける。
 ……そういえば、似たようなときがあった。
 初めてこの世界の昏い空を見上げたとき。
 まだ名前さえなかった自分の、最初の記憶。
 そしてふと―――思わず嘲けるような笑みをこぼす。
 あのときの記憶から、目的を持って行動しようとしたことなど、ただの一度もなかった。
 それならこれはいつもと同じだ。
 いつもと変わらない。
 ほんの少しの違和感という誤差が新鮮なだけ。
 その新鮮さが、自分も人並みの感情を持っているのかもしれないなどという勘違いを生んだ。
 ただそれだけのこと。


       

 /赤−Blood Dream〜第四章




「ギルィ=ストークだ」
 そう告げるだけで扉の向こうが騒がしくなるのがわかった。
 豪奢な装飾が刻まれているくせに何よりも堅牢さが浮き出ているのは、この扉を前にする人間にプレッシャーを与えるためなのかもしれない。もっともそれも飲み込まれそうに暗い闇の中では稚拙な児戯にしか見えない。人間程度が作るものでは、ここにある闇の存在感に勝つことができない。
 空は厚い雲に覆われている。雨でも降るのか、空気が重かった。
 廃棄街で最も広い敷地と豪華な造形を持つ屋敷。ひどく分かり易い顕示欲で彩られた邸宅をアルトは本拠地にしている。
 あれから半日が過ぎている以上、当然ながらすでにミハイルが俺に殺されたことは伝わっているのだろう。
 外套から二丁の拳銃を取り出す。
 右手には慣れ親しんだ鈍い銀。
 左手には、闇に融けてしまいそうな黒。
 そのどちらも、漂わせる硝煙の香りに変わりはない。
 扉に二つの銃口を向けながら感じていたものは、有り触れた既視感だった。


 銀の銃身から放たれた弾丸は威力を衰えさせることなく正面玄関の扉を穿つ。短い悲鳴と倒れ伏す音、怒号、僅かに遅れて錆びた鉄の香り。 
 向こう側の悲鳴がやまぬ内に扉を蹴破ると、そこには血溜まりと逃げ遅れた幾人分かの肉塊が転がっている。それに気を取られている間はない。曲がり角を遮蔽物にして廊下の向こうから散発的に銃撃が続いている。狙いの定まらない射撃は的外れな所に弾痕を穿つだけだが、それでも無視できるものではないはずだった―――相手が生への執着心を持ったマトモな人間ならの話だが。
 街を歩くようにゆっくりと足を進めながら拳銃を構え。
 頬のすぐ隣、脇腹、足首と次々と身体を掠めながら通り過ぎる弾丸を無視しながら、引き金を絞る。
 真っ直ぐ伸ばした腕と照星が真っ直ぐに並び、そしてその先に射線が伸び―――身を乗り出しすぎていた男の身体に突き刺さり、吹き飛ばす。
 辺りに漂うのは甘ったるい錆血匂。
 世界を染めるのはモノクロと極彩の紅。
 その他は何もなくていい。何も必要ない。音も、痛みも、何もかもが不要。
 無防備に進む身体を幾つもの弾丸が貫いた。その衝撃に倒れてしまいそうになりながら、腕を伸ばし―――二つの銃口は誤ることなく屍を築く。薬莢が跳ね、からからとダンスを踊る。
 それは試験体の死。倦怠だけの詩。献体される屍。
 異体の遺体は訴える。己が孤独と不安、栄華の無常を謳うもそれすら無価値と。
 見渡す限りがひどく鮮やか。赤い腕に真紅の床、天井は凄烈に焦げ大気すら赤く映えわたる。
 讃美歌は血潮に酸化した大気を奮わせ鼓膜を撫で世界は総天然極彩二十四色三十六式三万六千法。鎖切った腐りを切り離す金切り声に窓は引っ切り無しに奮い限が無い故にひとしきり錐にて穿たれ斬り刻まれ進化。視界の端には桃色斑なキリギリス。群れて跳ね羽根蒸れて弾け破裂。鮮血滴る肉片が飛び散る様に変わり映えなどあるはずも無くそれはただ泣き叫び亡くした人を憂い偲び早期にて想起するも総記には至らず大蘭咲き乱れる伽藍にて腐乱せし尼僧は騒乱と争乱を総覧する。
 総てが。
 音も痛みも苦しみも喜びも、俺が持っているものも持っていないものも亡くしたものも失くしたものも無くしたものも。
 何もかもをひっくるめて、ただ単一の赤に染まっていく。
 そして―――ばさり、と翼が鳴った、気がした。
 永遠にも思える死の行進。
「―――ここにいたんですか」
 それが、一人の少女の声で止まる。
「ここにいたのか」
 いつからそこにいたのか。
 振り返れば、血溜まりの廊下に一人の天使が神々しささえ放ちながら、いた。


「どうして―――来たんです、か」
「………」
 今にも泣き出しそうな、今にも壊れてしまいそうな声。
「なんで……なんで今更になってこんなことするんですか……? 貴方がわたしとお姉ちゃんをあの人に売ったんでしょう? それなのになんで―――なんで貴方がここにいるんですかっ!?」
 喉を震わせながら、アリアは叫ぶ。
「なんで……なんでそのままでいてくれないんですか!! そうすれば貴方はそのまま生きていけるじゃないですか! わたしたちがどんな目にあっても! わたしたちが何をされても! あなたは……生きていられるじゃないですか……」
 恨みでもなく。
 怨みでもなく。
「わたしはもうあの戦争の時に壊れてるはずだからどうなってもいいのに……お姉ちゃんがあの白い人にあんなにされちゃったら―――あんなにしちゃったら……!! もう、わたしがこの世界にいる意味なんてないのに! どうして貴方だけでも、無事でいようとしてくれないんですか……わたしは、それだけが救いだと思えたから壊れずにいれたのに!!」 
 ほんの少しの時間を過ごした人間にさえ、彼女はそんな言葉を投げかけた。
 相手のことだけしか考えていない。
 相手のことを第一に考えている。
 ひどく優しくて、儚い、この世界では有り得ないくらい、温室の稀花のような心を持った―――本物以上に本物らしい天使。
「お願いです……」
 アリアの周囲の空気が帯電し始める。
「あの人に頭と身体を弄られちゃって、もうわたしじゃ止められないんです」
 その言葉の先を悟り、銀の銃身をゆっくりと持ち上げる。
「わたしじゃあの人に逆らえないから……わたしを……わたしとお姉ちゃんを……」
 いつになく重い銃身。
 新しい傷から流れる血で赤く濁った銃身。
 それを、天使に向ける。
「お願いです。もう―――」 
 言葉を遮って引き金を搾る。
 なぜか、その先をこの少女に、言わせたくなかった。


「君がこういう行動に出る人間だとは思わなかったな……いくら知識があったとしても人間の行動は予測できないってことかな」
 幾つものガラス壜。
 液体に満たされたその中でたゆたう鮮やかなピンク色の器官。
 いつか見たジョルレイルの地下研究室とよく似た部屋で、少年のやや不機嫌そうな声が響く。
「君が天使に勝つのも誤算だよ。戦闘用ではないといえ君が生体兵器に勝利できる可能性なんてないんだ。しかも戦った形跡すらないようだしね…不意打ちで一撃でもしたのかな? それともその銀の拳銃。それに何か特別な仕掛けでも? 全く誤算続きだよ。僕はひどく不愉快だ」
 メスを握り締めた手を、何度も何度も手術台の上の肉塊に突き立てる。
「不愉快だ。とてもとても不愉快だ。不愉快で不愉快で不愉快で不愉快で不愉快だ。あらゆる物が不愉快だ。あらゆる事が不愉快だ。不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ! 森羅万象全知全能千変万化不愉快だ!」
 メスが肉を貫通し。
 穴を穿ち。
 手術台に刃が当たり、嫌な音をたてる。
 それでも白子の少年は叩きつけるように肉塊にメスを突き立て続けた。
「不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ不愉快だ!
 あんまり不愉快だから―――こんなにしちゃったじゃないか! あの女だけじゃなくて! "次の僕"でさえこんなにしちゃったじゃないか! どうしてくれるどうしてくれるどうしてくれる!! 死体装飾師風情がどう責任を取るつもりだギルィ=ストーク!」
 衝撃でごろりと肉塊が千切れ、その欠片がびちゃりと床に落ちる。
 それは頭のような形をしていた。それは顔のような造りをしていた。それは―――遠目に分かるほど、ミハイルの顔だった。
「せっかく自分の生みの親の知識を得て創造主以上になったっていうのに! あの天使すら自由に扱えたっていうのに! 君にこの気持ちがわかるか!? ほらそこに見えるだろう君にもマリア=カウントワーク博士のなれの果てが!」
 少年はこちらを向こうともせずに指をさす。その先には、他の器官と同じように、ガラス壜の中に浮かぶ脳髄。
「君にわかるかわからないだろう否わかることなど誰にもできるわけがない! あの愉悦があの快楽があの悦楽が! スペアの身体さえ培養しておけばいくらでも記憶を移して生きていける僕が、伊達の人間如きの数倍は長く生きている僕が感じたこともないくらいに凄絶壮絶熾烈激烈に気持ちがよかったんだ!
 あの天使に管理者コードを打ち込んでやってあの女を犯させたときなんて震えてしまいそうだった! そこらに転がってる浮浪者を連れてきて片っ端から殺させたときなんて達してしまいそうだった! そして何よりも―――あの女を解体させたときなんて死ぬことすら覚悟した! この世界すら手中に収めた錯覚に襲われたんだよ!」
 肉塊はすでに塊とすら言えない、ただの赤い泥にしか見えないまでに切り刻まれていた。それを両手でさらにかき混る。
「で、結局」
 突然、憑き物が落ちたように落ち着いた声でミハイルは問いかける。
「君は何しにきたのかな」
「………」
 向けるのは黒い拳銃。マリアの浮かぶガラス壜に向け、引き金を搾る。弾丸は容易くガラス壜を突き破り、貫かれた脳髄が床に落ちていく。
 そのまま銃口をミハイルに向け―――
「ああ、そういえば―――言ったっけ。僕が遊んだら天使を"研磨"してくれって。君も意外と律儀だね」
 振り返った顔には、間違えることのない、明確な笑みが浮かんでいる。
 ミハイルは放り出していたメスを手に取り、潰れて血に滑る刃を撫でた。
「そして君は最後の楽しみすら僕から奪うつもりなんだね。ま、そんなこと」
 言葉を途中で切り。
 ミハイルは握り締めたメスを勢い良く自分の耳に突き立てる。
「この僕がさせるわけないだろう? ギルィ=ストーク」
 濁った声に混じっていたのは、嘲笑だった。





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