Torso
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〇 〇
忘れた記憶の夢を見た。
守れなかったものの夢を見た。
守りたかったものの夢を見た。
それが忘れた記憶だとわかるが、忘れた記憶だから、それが失くした記憶かわからない。
何もかもが希薄で。
何もかもがモノクロで。
斑模様の血の色でも、それがひどく綺麗に見える。
そんな、他愛もない夢を見た。
/偽り−Deep Sea〜第三章
朝だということに気づくのに、僅かな時間が必要だった。
隣を見れば翡翠の少女。
安らかでもなく、苦しげでもなく、言葉の通り死んだように少女は眠っている。
身体を起こし、ハンガーにかかっていた外套を羽織り―――その時になって、初めて机の上に置いてある物に気が付いた。
何の変哲もない、ごく普通の書き物机の上に置かれた。
何の変哲もない、ごく普通なくせに、ひどく違和感を放つ、拳銃。
手に取って見ると、その外見からは意外なほどに軽い。俺が持っている今では珍しくなったリボルバーではなく、恐らくは大戦当時の標準だったオートマティック。無駄をこそげ落とした細く軽い黒い、だが人殺しの道具であるという無骨さを隠し切れない銃身。幾人もの人間に配られた大量生産品であり、握りの底にはロットナンバー―――最低でも、その数だけの人間が死んだという証が打ち込んである。
昨夜のマリアの言葉を思い出す。
『残してあるものはどうしてくれたってかまわないわ―――』
「………」
躊躇いというほどの迷いもなく、俺はそれを外套にしまった。
昨夜マリアの部屋で見かけた、マリアが持っていた銃がこの部屋にある。
彼女なりの置き土産のつもりなのか。それとも別の意味があるのか。
今はまだ分からない。それでもこれは俺が持っていればいいのだと、そう思った。
微かな痛みが胸に残っている。それが何なのか、いつものようにわからない。マリアとアリアというひどく特異な二人に出会ったあとも、それは変わらない。
俺は首を振って思索の糸を切る。
考えても仕方がない。
言い様の無い感覚を無視して、俺はリビングに向かった。
静かな廊下を歩きながらふと奇妙な思考が脳裏を過ぎった。
そういえば、いつから俺は自分の変化を気にするようになったのだろう、と。
「やあ、おはよう。いい朝だね、ギルィ=ストーク」
昨日の残り物を暖めたのか、暖かな湯気を上げるスープとパン。
昨夜とほとんど同じ光景なのに、そこに座る人間が変わっただけでひどく寒々しい、作り物めいた暖かさを周囲にまとわりつかせながら、白子の少年はリビングに入った俺を笑顔で出迎えた。
「ああ、勝手に頂いているよ。僕は寝起きがいいのが取り得でね。朝はきちんと食べるようにしているんだ」
言ってスープを口に運び、感慨深げに息を吐く。
「いいねえ。なんていうか、家庭の味っていうヤツかな? 実は僕には両親がいなくてね。ああ、死んだわけじゃない。初めからいないんだ。大戦当時の記憶メモリとして人工的に合成されたんだよ。この頭の中には膨大な量の大戦期の技術が記録されてて―――ま、今じゃ再現できない物が大半なんだけどね―――お陰で教会の技術者達は僕を枢機卿なんて立場に置いて優遇してくれてるし、そう悪いことでもないんだけど。やっぱりたまにはこういう空気に浸ってみたくなるんだよ。戯れでしかないけど、人間生きる上では娯楽が必要なのさ。ああ、娯楽って言えば―――」
浮かべた笑みは、老人のそれ。
少年の口からこぼれた言葉は、初めて出会ったときと同じ賞賛だった。
「流石はリディンの紹介だね。仕事が早くて満足だよ。こんなに早く天使の居場所を見つけてくれるなんて想像も―――」
その時、言葉を遮ってリビングの扉が開き、起き出して来た少女が翡翠の瞳を少年に向ける。
ミハイルは何故かふと怪訝そうに少女を見つめ、やがて気にしないことにしたのか言葉の続きを述べた。
「想像もしなかったよ。お礼を言わせてもらう。ありがとう、ギルィ=ストーク。お陰で天使だけじゃなくて旧時代から生存してる数少ない科学者まで手に入れることができたんだからね。これは流石に想像していなかったよ」
楽しくて仕方が無いといった風に少年の笑みが増す。
「君は知っていたのかな? マリア=カウントワーク博士。プロジェクトナンバー333、通称"天使"開発では開発主任に任じられている。天使を培養する時にその母細胞を提供した人物でもあるね。もちろん彼女の経歴はそれだけじゃない。ナンバー300台のほとんどの生体兵器になんらかの形で関わっている"天才"だ。その中でも僕が評価したいのはナンバー301、彼女の記念すべき初めての研究成果。記念すべき処女作品。膨大な記憶領域と高度な管理能力を持った生体記憶メモリ、プロジェクトナンバー301、通称は"司書官"―――ああ、ごめんごめん。勿体ぶるつもりはないんだ。
そう。僕の製作者であり、僕の母細胞の提供者だよ。
正にこれこそ娯楽の極みじゃないかなギルィ=ストーク? 自分の母と妹を同時に玩具に出来るんだ。自分を生み出した存在と自分と同等の存在を、その意思に関係なく自由に出来るんだ。これ以上の娯楽なんてそれこそ自分自身を殺すくらいしか残ってないじゃないか―――」
言葉を紡ぐたびにそれは色を濃くし、引きつった痙攣のような笑顔。
狂気を孕んだ愉悦を存分に味わう姿。
なぜだろう。
それと同じ物を、いつかどこかで……今は失くした最大の憎悪を込めながら見ていたような気がする―――
「―――」
外套のポケットに手を差し込み、俺は掴み取ったものをミハイルに向けて躊躇うことなく引き金を引いた。
「っ―――!」
デフォルトで組み込まれている高性能な消音装置とその機構のせいで銃声はほとんど聞こえなかった。むしろ少年の笑みに弾丸が突き刺さった時の喩えようのない奇妙な音が、脳漿の散る飛沫の音が、残響のように耳にこびり付く。
言葉を永遠に途切れさせ、着弾の衝撃で椅子に座ったまま、呆気なく―――本当に呆気なく、少年は倒れた。
「………」
沈黙と共に視線を感じて振り返る。
いつもと同じ、感情の見えない視線。いつもと変わることのない翡翠色の二つの瞳が、俺をじっと見つめている。
死んでいったミハイルを、ミハイルを殺した俺を―――すべてを目の前にしていたはずのこの少女は、特別な感情はおろか一瞬の揺らぎも感じなかったらしい。
―――彼を殺した俺のように。
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