Torso



 笑っている。
 暖かな陽だまりの中で、笑っている。
 かけがえのない何かと一緒に。
 かけがえのない何かのために、笑っている。
 かけがえのない、失ってしまったものたちのために笑っている。
 全てを守るために。
 全てを失ったとき、悔いを残すことがないように。

 ただ、笑っていた。


                                    

 /空−Pain〜2nd




 目を開くと、木目の天井がまず目に入った。
「……っ」
 身を起こそうとして、身体の節々から来る痛みに顔をしかめる。ゆっくりと痛みに耐えながら身体を起こし、そこで初めて自分がベッドの上で寝ていたことに気付いた。同時に、自分を見つめる視線にも。
「……お前か」
 翡翠の少女はそこにいた。さして広くない部屋の壁際で、俺の声に何の反応も返さず、ただいつものように俺をじっと見つめている。他の方を眺めてふと視線を戻せば死んでいるかもしれない―――そんなことを考えて苦笑する。だからどうだというのだ。少女が―――いや、誰が死のうと関係ない。そもそも自分が生きているのかすら実感が沸かないというのに、他人の死を考えるなんて。
 こつこつと、控えめにドアがノックされる。
 答えずにいると、しばらくして音もなくドアが開かれ、見覚えのある服を抱えた黒髪の少女が姿を現した。
「目が覚めましたか」
 さして驚いた風もなく、少女は部屋の片隅の机に服を置く。
「手当てするときに邪魔だったので服は脱がせました。洗濯しておきましたから。ここに置いておきます」
 身体を見れば、包帯で綺麗に手当てされている。
「お前が手当てしたのか?」
「マリーツィア」
 黒髪の少女はこちらには目も向けず、そこに立ったままで言った。
「私の名前はマリーツィアです。『お前』ではありません、ギルィ=ストーク」
 ひどく平坦な声だった。感情を一切取り払ったような、冷たくも温かくもない、透明な声。
「……この手当ては、マリーツィアがしたのか?」
 口にして、自分でもどこかおかしな表現だと思った。
「ええ」
「なぜだ?」
 俺を手当てしてもマリーツィアが得をすることなどない。初対面の俺の名前を知っているというのは、きっとアルトが顔と名前付きの手配書でも配っているせいだろう。それとも教会の方か。どちらにせよ、俺を殺す理由はあれど、手当てする理由があるとは思えない。
 疑問の視線を向ける俺に心底不思議そうな顔をして、マリーツィアは何気ない風に、ごく当たり前のことを言うように言った。
「貴方が生きていましたから」
 あまりといえばあまりな科白に、思わず思考がそこで停止する。
「生きていた……から?」
「はい。死んでいるなら手当ては必要ないでしょう?」
 もちろん、その時は埋葬するつもりでしたけど―――そう言う彼女の表情は全くの平静そのもので、そのせいで彼女が嘘を吐いていないことがわかる。そもそも嘘を吐く必要がない。
「殺されそうになっていて、しかも大怪我を負っている方がいれば私は助けます。自殺志願者なら話は別ですが……貴方はまだ死ぬ気はないようでしたから」
 ―――。
「俺が……生きようとしていたように、見えたのか?」
「ええ。少なくとも死を受け入れるつもりはないようでした」
 それがどうかしましたか?とマリーツィアは首を傾げる。
 問いかけを無視して俺は自分の両手を見つめた。いくつもの傷が走る、無骨な両手。何人もの命を奪ってきた両手。
 生きることにも、死ぬことにも、執着など持っていないはずなのに。
 あの瞬間。
 少年に銃口を向けられた瞬間―――いや、今までだって、俺は本当に死を受け入れていたのだろうか。
 以前なら簡単に導けた答えが、今はまるでわからない。
 本当に。
 俺は、どこが壊れているのだろう―――
「―――まだ具合が悪いようですね」
 不意に冷たい手が額に当てられ、俺はびくりと身体を振るわせた。
 いつの間にか近づいていたマリーツィアが俺と自分の熱を比べて呟くように言う。
「熱は下がっています。しばらくはそのまま安静にしていてください。私は子供たちの面倒を見ていますから」
「子供……?」
 オウム返しに訊ねる俺にマリーツィアは扉に手をかけながら言った。
「ここは孤児院ですから」


 相変わらずの昏い空の下で、子供たちが遊んでいる。
 備え付けられたベンチに腰を下ろし、いつもの外套を身にまとった俺は何をするでもなくその様子を眺めていた。翡翠の少女もそんな俺の隣に座り、飽きる様子もなくどこかを眺めている。
 旧市街から少し離れた場所にある小さな町。マリーツィアはこの町で孤児院兼診療所を開いているらしい。実際は科学者の集団である教会は表向きの『慈善事業』としてこうした孤児院をいくつも運営している。マリーツィアの孤児院もそのひとつだろう。
 どうして教会に追われている俺をマリーツィアがここに置いているのか。
 俺がなぜここにいるのか。
 何もわからないまま、俺はずるずるとこの町に滞在していた。
 あの日。
 あの姉妹を殺した日から、歯車が壊れてしまっている。以前なら感じなかったことが、感じずにいられた些細な棘が身体の奥に刺さる。
 それは知らないはずのもの。
 知る必要などなかったはずの、ちっぽけな痛み。
 ふと、視界をころころと横切るボールに我に返る。走りよってボールを仲間のところに投げ返す少年は、マリーツィアと初めて出会ったときに彼女が殺した少年と同じくらいの歳だった。
「ギルィ=ストーク」
 振り向くと、マリーツィアがいた。
「買い物に行きます。手伝ってください」
 無機質で深い黒瞳には何も見えない。


「よおマリーちゃん、今日はなんだい?」
「あら、いい男連れてるわね」
「お、この前はありがとうよマリー。もうすぐ診察料も払えるから待っててくれよ」
「マリーちゃん、また爺さんの脚診てやってくれねえか?」
「マリー、子供たちは元気? 今度お菓子でも持って様子見にいくわね」
「この娘は新入りかしら? 綺麗な瞳の色してるわね」
 町を歩いていると、あちこちから声がかけられた。
 若者や老人。それこそ男女問わず、みなが彼女に笑顔で話しかけている。ずいぶんと親しまれているようだった。変わらない無表情のマリーツィアは多くの言葉を口にしない。せいぜいニ言三言を返す程度だ。それでも彼らは笑顔で彼女を迎え、笑顔で元の場所へと戻っていく。
 俺の視線に気付いたのか、マリーツィアは怪訝そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「………珍しい町だな」
 俺が良く知る旧市街にはない光景だった。
 喧騒だけなら、人々の数だけなら旧市街に比べるまでもないだろう。町の規模も、村と言っても問題ないくらいのものだ。
 それでも、この町の住人にはあの街にはないものを持っているように思えた。それが何かまではわからなかったが。
「……そうですね」
 足を止め、食料品の入った袋を抱えなおして彼女は空を見上げた。
「ここは大戦のときに撒き散らされた粉塵の濃度が薄いんです」
 陰鬱とした昏い空。大戦で人間が刻んだ罪を暗示するかのようにそれはこの世界に広がっている。
「傍目にわかるほどではありませんし、青空とまではいきませんが……旧市街のような奇妙な空ではなく、薄曇の空が見れるときもあるくらいです」
「それが何か関係あるのか?」
「人は空を失っては生きられませんから」
 再びマリーツィアは歩き始める。
「空も、花も。人間はその全てを失ってしまいました」
 粉塵に覆われた空は青空を失い。
 高熱で焼き尽くされた大地は、すでに生を育む力を亡くした。
 この星を喰い尽くしても、人は屍のように生き延びてしまっている。少しずつ忍び寄る腐敗の香りに気付かないふりをしながら。
「ここは辛うじて空が生き延びています。今にも死に絶える寸前ですが、それでも今は空がある。
 それだけでも充分だと思いませんか、ギルィ=ストーク」
 まるで何気ない日常の会話を閉めるように、マリーツィアはそう締めくくった。
 少し遅れて歩きながら、俺はマリーツィアの背中を見る。
 こんな時、何を思えばいいのだろうか。こんな時、何を感じればいいのだろうか。それは俺の知らないもので、失われた記憶の中にあるのかも、失ってしまったから解らない。
 こんな時。
 あの天使の少女なら、何を思うのだろうか。


 紅く
 赤い
 朱色。
 螺旋と鋼線に混じり融け、俺を僕を私を君を貴方を貴女を彼方を広がり侵すそれは深紅。九十九の赤、葛の朱、綴りの紅、躑躅の緋、旋毛の朱鷺、築地の蘇芳、墜落の朽葉。一遍の揺るぎすら許さない清冽で凄烈で鮮烈で戦列の赤色が脳髄に染み渡る。もう僕は僕でなく赤でしかなく赤以外ではなく意外なことに赤でしかない。倫理は破綻し祝福は血色、誠実に彩られた色彩美はすでに死に絶えのたうつ屍の群れですらそれは一色のアカイロ。煉獄ほどに爆ぜてはおらずかといって三千世界というほど燦然ともしておらず中途に半端でありながらもやはり赤は赤でしかなく赤より他に在れるわけがなく。
 赤ん坊が踊る。
 胎児が嘲笑う。
 水子が満面の笑み。
 蝗の群れが這い。
 五つ子の屍がお互いを撫でる。
 その全ても、単調な赤。
 見渡す限りが赤い。
 空も。
 花も。
 そして、辺り一面に散らばる屍の欠片も。
 鮮やかな、まるで悪趣味な画家の版画のように、ペンキで塗ったように鮮やかで浅い赤に世界が彩られている。
「………」
 口を開こうとして、喉が空々に乾いていることに気付いた。乾きは後から後から波のように押し寄せ次第に俺の喉は干乾びていく。
 苦しさに膝をつく。喉に手を当てようとしても、腕は1ミリも動こうとしなかった。
 自分の前に誰かが立つ足音。
 見上げれば―――そこに、いつか殺した神父が立っている。
「ジョル……レイル」
 やっとの思いで口から漏れた掠れ声にジョルレイルは何も語ろうとしない。そこに立ち、薄い笑みを浮かべて俺を見下ろしている。構図だけが俺を殺そうとした少年と同じで、なぜかそれが滑稽だった。
 ふと意識をそらし―――ジョルレイルが、幾分か小さい白子の少年に変わっている。かと思えば、マリアに―――そして、アリアに。
 意識が薄れる度にその姿は変化し続ける。万華鏡のような視界に吐き気を覚えてもそれは止まらない。
 意識が遠くなり、近くなり、亡霊が姿を変える。
 段々とその速度が速くなり、シャッターで区切られるような速さに意識が酔い始め、不意に別の方向からの視線に気付き―――

 ―――そこで、跳ね起きた。

「―――っ、は…ぁ、はぁ、はぁ」
 寝汗に塗れて痙攣する身体をおそるおそる両腕で抱く。治りかけの傷が疼き、その痛みでようやく俺は我に返ることが出来た。深いため息を吐いて周囲を見る。俺が寝ていたベッドと机と椅子。壁にかかった陰気な色の外套。それ以外は何もない、殺風景な部屋。マリーツィアの孤児院の一室。
 傍らを見れば。
「―――お前、か」
 翡翠の少女は変わらない視線を俺に向けている。初めて出会った時に見せた穏やかな笑顔はそこにはない。マリーツィアのそれとも違う、全く異質な無表情。
「………」
 得体の知れないものを感じ、少女から目をそらして俺は無言で身体を横たえた。目をつむり、呼吸を落ち着け、眠ろうと意識を殺していく。
 ……気のせいだろう。
 少女の視線に、一瞬でも温もりを覚えたなんて。




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