Torso



/傷痕−Plus and Minus〜3nd




 包帯が解かれていく。
 僅かに血が滲んでいた白布の下には、傷だらけの皮膚―――大小様々に肉まで刻まれた古傷を覆うような、幾つもの新しい傷跡があった。治りかけ、薄く張った濃赤紫の皮膚は何も伝えてこない。多少動かすだけなら些細な違和感すら感じない傷口は、今はただ色だけでそこに傷を負ったということを小さな声で訴えていた。
「……順調に直っているようですね」
 マリーツィアの細い指先が穿たれた傷と皮膚の境をなぞる。冷たい指に触れられ、弾痕は微かな寝返りを打つように疼いた。
「言っただろう。放っておけば治る」
 ここまで多くの怪我をしたことはなかったが、それでも死体の山の上で目を覚ましたときから何度も傷を負ってきた。肉を裂かれ、銃弾に貫かれても俺の身体は停まることなく今も動いている。いや―――すでに停まっているのかもしれない。
 生きていたいと思ったことはなく。
 何かを目的としたことはなく。
 何かを夢見ることはなく。
 死にたいと想ったことも、ない。
 生きる意志も死ぬ気力もない。そんなものは生きているとは言えないのかもしれない。
 生きているわけでもなく、死んでいるわけでもない。そこにあるのは傷だらけの身体と腐敗した心。
 俺の命など、とうの昔から停滞しているだけなのかもしれなかった。
「幾つかおかしな傷がありますね」
 刃物で裂かれ、奇妙に歪んだ銃創を見ながら彼女は顔色一つ変えずに言う。
「弾を取り出した」
 『アルト』で受けた銃弾は幾つかが貫通せずに残っていた。ナイフで傷口を裂いて指で抉り出す。激痛を伴うはずの行為だが、薬で磨耗した神経には不満の残る半端な刺激程度にしか感じられない。……そういえば、もう随分と薬を使っていない気がする。
 マリーツィアは何も言わなかった。特に何かを感じた風でもなく包帯を取替えていく。手際がいいのは流石医者といったところだろうか。
「ギルィ=ストーク」
 包帯を巻きながら、不意にマリーツィアが囁く。
「余り無茶をしないでください。
 ―――貴方は、生きているんですから」
 それは普段の彼女からは考えられないような、歳相応の少女のような声だった。


 マリーツィアの孤児院には十数人の子供がいる。下は3歳から始まるその孤児たちは様々な理由でこの孤児院に入院していた。オーソドックスな捨て子や両親と幼くして死別した者、両親に殺されそうになって一命を取り留めた者―――医者としての仕事をこなす傍らでそういった孤児たちの世話をしながら、マリーツィアは一人でこの孤児院を維持しているらしい。勿論ここも教会施設の一部である以上、教会からの支援は受けているのだろうが、そもそも日々の食料を手に入れることにも苦労する世界だ。これだけの孤児を抱えるというのは並大抵のことではないのだろう。孤児たちも幼いながらにそれを理解しているのか、年齢特有の無邪気さを持たない者が多い。寡黙なマリーツィア自身からの影響もあるのだろう。ここに来てしばらく経った今も、俺は『賑やかな会話』を聞いたことがなかった。口喧嘩の類でさえ、ここでは見かけることがない。皆が穏やかに―――子供らしい中に老成したような欠片を抱いて日々を暮らしている。
 ―――ずっと俺の側から離れない翡翠の少女に話しかけたフィアは、孤児院はおろかこんな世界では珍しいくらいに明るい、ここに住む孤児の一人だった。

 その会話を耳にしたのはマリーツィアの診療室からの帰りのことだった。子供には危険な物も多いせいか診療室は子供たちの住まいと離れている。マリーツィアからも言われているのか、この辺りで子供の姿を見かけることはなかった。
「ねえお姉ちゃん、名前は?」
「………」
「あのお兄さんはお姉ちゃんのお兄さんなの?」
「………」
「喋れないの? フィアもね、ちょっと前まで喋れなかったんだ。そうだ、マリーに頼んだらきっと喋れるようになるよ」
「………」
 無邪気に話しかけるフィアに翡翠の少女は口を開こうとしない。それどころかそもそも少女の視線はフィアを向いていない。フィアがそこにいることに気付いているのかどうかも微妙なところだろう。
「うー、お姉ちゃん?」
 フィアは少し残念そうに髪を揺らすと、少女の服の裾を掴んで引っ張った。そこで初めて少女は目をフィアに向けるが―――それだけだ。一抹の興味も持たず、少女は再び虚空に目を泳がせる。
 そして不意に、何気なくそれを見ていた俺と少女の目が合う。
「あ、お姉ちゃんっ?」
 翡翠の少女はぱたぱたと足音をたててこちらへと走り寄ってきた。
「お兄さん、お姉ちゃんは喋れないの?」
 残念そうな顔もそこそこに、取り残されたフィアは俺を見上げる。
「さあ。考えたこともない」
 翡翠の少女が喋れようが喋れまいが俺には関係ない。他人のことに興味は持っていないはずだ。……だから、ここで会話を止めて立ち去るはずだった。
「―――少なくとも、俺は声を聞いたことがないな」
「そうなんだ……ごめんね、お姉ちゃん」
 フィアは目に見えて落胆し、肩を落とす。喋れない少女に答えを求めていたことを気にしているのだろう。もっとも翡翠の少女がそんなことを気にしているのかは分からないのだが。
 翡翠の少女はただそこにいるだけ。
 あのジョルレイルの地下庭園―――栄華を誇った旧世界の中で語られる御伽、過去のさらに過去を描写したかのような穏やかな日の光の射す翼の庭で出会ったその時以来、彼女は俺の傍らで、俺が歩む後に続くだけ。
「お兄さん」
「何だ?」
「お姉ちゃんの家族なの?」
「違う」
 無邪気な声に即答すると、何故か胸に言い様のない痛みが走る。 
「……じゃあお姉ちゃんのお名前、わからないね。あ、お兄さんのお名前は知ってるよ。マリーから聞いたんだ。お兄さん、ギルィさんって言うんだよね」
「……そうだ」
 借り物の名前。目覚めた時に何もかもを失くしていた俺が初めて手にした物に刻まれていた、初めて口にした言葉。
「あ、そうだ! お姉ちゃん、マリーにお願いして名前を付けてもらったら?」
「マリーツィアに?」
「うん! だってマリーが言ってたよ。名前はね、お父さんとお母さんに付けてもらうものなんだって」
 フィアはこれ以上もない名案を思いついたとでも言うように満面の笑顔で俺を見上げる。
「だからマリーがお母さんで、ギルィさんがお父さんになってあげるの。それで二人でお姉ちゃんの名前を考えてあげれば家族になれるよっ」


 それは確かに、幼過ぎる言葉だった。
 あてがわれた部屋で独り、想いというには余りに現実味のない、空想と呼ぶには余りに無味な、名前も知らない思考を手繰る。
 マリアとアリアという名前の、二人の姉妹。
 あの二人は血こそ繋がっているものの、それが世間一般の言う家族の血縁と呼べるものではないことくらい、俺にも分かる。そしてあの二人は例え血が繋がっていなくとも―――家族、だったのだろう。
 俺の知らない確かな繋がり。
 俺が忘れた記憶に、それはあったのだろうか。
「下らない……」
 見えない物に何の意味があるのか。見えている物にすら確かな感情を抱けない俺には、決して解けない命題。見えないというなら死という終末も同じかもしれないが、見えなくとも死は平等に訪れる。その平等さだけは信じることが出来た。信じることが出来たから、ジョルレイルを殺すことが出来た。ジョルレイルだけではない。
 何人もの人々。依頼されるがままに殺してきたのは、曖昧な俺に信じられる物がそれ以外なかったから。
「くだら、ない」
 震える喉を無理やり動かし、その科白を噛み締めるように口にする。
 虚勢だ。
 呆れてしまいそうなくらいに分かりやすい、幼犬の唸りに似た虚勢。そこにあるのは文字通りの空っぽな勢いで、誰かに指摘されてしまえばそれだけで崩れ去る脆い自己防衛。
 無意識に、それでも必死に守ろうとしてきたその城壁は、今ではガラクタの山のように頼りない。いや―――元からそうだったのかもしれない。俺が守ろうとしてきた自分という殻を囲む壁は隙間だらけの格子で、その隙間に必死でふさいでいただけなのかもしれない。
 屍の壁は詰める肉がなくなればただ骨を晒すだけ。その骨すらも、乾けばひどく脆い。
 ふと部屋の扉が開き、思わず傍らの銃を握る。
 腕をそちらに向け、遅れて目をやると―――翡翠の少女が、向けられた銃口を見ていた。
 一点の曇りのない、常緑の瞳。
 見透かすことも見通すこともない、ただ観るだけの瞳。
「………」
 ため息を吐いて銃を元の位置に戻す。
 すべてを忘れさせてくれる夜は遠く、すべてから逃げられる薬は、ここにはない。
 たったそれだけのことが、俺を閉じ込めている。 


 見渡す限り一面、視界に荒野が広がっている。
 生えているのは僅かに根を張る奇妙な形の雑草、視界を妨げるものは所々に残った瓦礫の小山程度。地表の大部分は固い荒土で覆われている。
 大戦終結後に辛うじて人間が住める土地は旧時代の都市部や地下プラントの残る一部―――最終決戦の大規模破壊にすら耐えた旧時代の遺産があった一部分に限られている。こういった風景は街から離れれば珍しくも何ともない。マリーツィアの診療所のある町もそれは例外ではなかった。そして普通、住人たちは街から出ようとしない。獣は愚か小動物の類すら死に絶えた荒野は危険の度合いで言えば街の中よりも安全と言えるのだが、それでも街から出ようとする者は少ない。いないと言ってもいいだろう。人は人の群れでしか生きることが出来ないのだから。
 だが―――その荒野に、子供たちの楽しげな声が溢れている。
「―――マリーツィア」
「何ですか?」
 荒野を駆け回る少年や少女―――孤児院の入院者たちを穏やかなまなざしで眺めていたマリーツィアは、隣に座った俺の声にこちらを向いた。
「これは、何だ?」
 子供たちを顎で示し問い掛ける。
 マリーツィアは不思議そうに首を傾げ、
「ピクニックですよ」
「ピク……?」
「知りませんか? 天気の良い日にお弁当を用意して家族で出かけることです」
 ……空を見上げる。
 陰鬱な昏迷の空。確かに他の比べれば粉塵の濃度は薄いのだろうが―――それは天気が良いなどと、お世辞にも言える空ではない。
 怪訝な俺に気付いたのか、マリーツィアが苦笑する。
「重要なのは天気ではありませんよ、ギルィ=ストーク」
 俺が運んできたバケットを撫で、物分りの悪い教え子にするように言った。
「気の知れた皆で外で食事をするだけでいいんです。あの子たちも貴方も―――」
 なぜかそこで一度言葉を途切れさせ、マリーツィアは微かに表情を曇らせる。一瞬のことなので彼女がなぜ言い淀んだのかまでは分からない。
「―――私も、晴れた空を見たことはありません。食事だって簡単なものでいい。勿論晴れてくれれば言うことはありませんけど、今ではそれは望めないでしょう。雨でさえなければ、皆が楽しければ、喩えそれが欺瞞だとしても―――それだけで、いいんです」
 マリーツィアにつられてそちらを見ると、普段は滅多にはしゃぐことのない孤児院の子供たちが楽しそうに声を上げて駆け回っている。
「……ならなぜ俺を連れてきたんだ」
「私一人ではあの子たちのお弁当を運ぶことは出来ませんから。いつもは子供たちにも持ってもらっていますけどね。それに―――」
「それに?」
 続く言葉を促す俺に、マリーツィアは心無し―――本当に少しだけ、楽しげな声で答える。
「フィアが貴方と一緒に来たがっていたんですよ」
「………」
 思いがけない科白に子供たちの中にフィアを探す。少女の姿はすぐに見つかった。フードを被り手袋をはめ、肌を隙間無く覆う服を着ているフィアは他の子供たちの中でも一際浮いて見える。
「フィアは恐光病という病気の患者でした。今ではあの程度の服装で外に出ることが出来ますが、私が彼女を引き取った時は外に出ることなんて考えられないくらいにひどい状態で……副作用なのか、言葉を失っていました」
 恐光病というのは、一度リディンから聞いたことがある。外光に反応して発作を起こす突然変異の遺伝子病。大戦以前から存在する病で、いくつかの治療法は存在するものの、どの治療法も完治には繋がらないという、俗に言う不治の病の一つだ。もっとも医療設備の失われた今となっては完治する病の方が少ない以上、外に出れないという一点さえ除けば恐光病も他の病と変わらないのだろうが。
 ……確か話を聞いた時の依頼は、恐光病で死んだ少年をそのままの姿に装飾して保存するという仕事だった。
「彼女や他の恐光病の患者にとって、明るい陽射しというのは死に直結します。そう考えると、彼女たちはこの空に救われているのかもしれません」
 マリーツィアの言うことが正しいのか間違っているのか判断出来ず、俺は沈黙するしかなかった。
 正しくはないと思う。だが間違っていると言うのも何か違う気がする。
 言葉に詰まって視線をそらせば、そこには翡翠の少女がいた。子供たちの輪に加わることもなく、そちらに興味を向けることもなく、少女はこちらを眺めている。僅かな瞬きと呼吸をしている証拠である胸の上下がなければ、それは精工に作られた人形のように見えただろう。
 少女はいつも其処にいる。
 何を考えているのかまるで分からない、無機質のまなざしで俺を眺めながら。
「あなたは―――」
 何か言おうとしたマリーツィアの言葉を遮るように、投げ損ねたのだろうボールがこちらに飛び込んできた。ボールは少し手前で地面に落ち、ぽんぽんと跳ねながらこちらに転がってくる。
「ごめんなさーいっ」
 見ればフィアがこちらに頭を下げながら走り寄ってきていた。
「拾ってあげてください」
 苦笑しながら促され、俺はブーツの先に当たって止まったボールに腕を伸ばす。
「はあはあ、お兄さん、ありがとうっ」
 息を切らせて走ってきたフィアにボールを渡してやると、律儀にぺこりと頭を下げ、
「お兄さん、お兄さんも一緒に遊ぼうよ」
 予想だにしなかった不意打ちの言葉に俺は間の抜けた顔をしていただろう。
「お兄さんもお姉ちゃんもマリーもみんなと一緒に遊ぼうよっ。せっかくのお出かけの時くらい遊ばないと"くたびれたおとな"になっちゃうんだよ?」
「………」
「フィア。どこでそんな言葉を覚えたんですか?」
「パン屋のリーシャがいつも言ってるよ? 『うちのだんなもフィアくらい元気ならわたしもらくできるんだけどねえ』って。ね、一緒に遊ぼ?」
「………」
 ため息を吐く。
「俺に構うな」
 はっきりとした拒絶にフィアの表情が曇る。それを見たマリーツィアがやんわりと後を継ぐ。
「フィア。ギルィさんはまだ傷が治りきっていないんです。わたし達のことは気にせず遊んでください」
「あ……ごめんね、お兄さん」
 申し訳なさそうにこちらの顔を覗きこむフィアに俺は面倒に思いながらも首を振った。
「気にしていない。勝手に遊んでいろ」
「うんっ。……お姉ちゃんは?」
 話し掛けられても翡翠の少女はいつもの通りだった。聞こえているのか聞こえていないのか、曖昧な無機質に揺るぎはない。
「むう、ざんねん。でも、いつか一緒に遊ぼうね? フィアはいつでも大歓迎だよ」
「フィア、みんなが待っていますよ」
 フィアが振り向く先には、少女と遊び道具の帰還を促すようにこちらを見る子供たちの姿があった。
 ごめーんっ、と大きな声で言ってフィアは来たときと同じように走り出す。そして不意にこちらを振り向き、
「お兄さんもだよーっ」
 去っていくフィアを見送りながら、マリーツィアが口を開く。
「いい子でしょう?」
「さあな」
「迷惑でしたか?」
「……さあ。知らない」
 いつもと変わらない俺のぶっきらぼうな口調に苦笑する。
「あの子はとても強い子です。病気のせいで親に捨てられて、普通の人たちが当たり前のように得るありきたりな物を手に入れることも出来なくて―――きっと貴方に構うのは、貴方に親近感を感じているからでしょうね。あの子は寂しがり屋ですから」
「親近感……か」
 何となく言いたいことが分かる気がした。
 全てを失った人間は強い。その強さは失う物がないことから来る物であったり、それを得ようと願う飢餓のような強さであったりと様々だ。
 そしてそれはに、全てを失った故の弱さを抱えているということでもある。今の俺がはっきりとした理由のない不安に苛まれているように、強い人間は同時にその強さに比例した弱さを持っている。
 それは地面に打ち込まれた杭のような物で、引き抜く人がいなければ決して治ることのない傷痕なのだろう。地面に手はないのだから、周りの人間がそれを引き抜いて穿たれた穴を埋めてやらなければならない。
 目覚めた時に誰かと出会っていたなら、フィアがマリーツィアに救われたように誰かに救われていれば、俺は変わることが出来たのだろうか。
「………下らない」
 マリーツィアに聞こえないように口の中で小さく呟いた。胸のどこかに、ちっぽけな棘の痛みを感じながら。
 見上げた昏い空の下、子供たちは楽しそうに笑い、愉しそうに走り回っている。
 そこにある確かな温かさが、怖かった。










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