Torso
|
〇 〇
あの日、俺の世界は壊れた。
玩具のバネをねじ切るよりも簡単に、何一つとして余すこと無く。
見上げた空は重く、色と呼ぶのもおこがましい虚ろな色をしていた。
なぜかそれがとてもおかしくて、自然とマイナスの笑みが浮かんだ。
歪んだ頬を冷たいなにかが伝う。
こぼれ落ちたそれは地面に黒い濁りを作り、そして消えてゆく。
その様子を見て、やっぱり俺は笑った。
絶えることなく―――枯れたはずの涙が頬を伝った。
/死体‐The Body〜第一章
まずは死体の全身に付着している血液を熱い湯に浸したタオルで綺麗に拭き取る。
こびりついた赤をすべて拭き終えると、
傷口を広げないように注意しながら穿たれた弾痕から弾丸を抉り出す。
ひしゃげた弾丸の代わりにパテを塗りこみ、さらに傷口の周りを特殊な染料で何度も覆う。
次に右腕をへし折り、さらに肋骨を数本、叩き折る。足の骨を不自然な方向に歪め、
これも同じように折っておく。
銃撃戦の末に生まれた死体は、たったそれだけの作業でただの事故死体になった。
「相変わらず、見事なもんだな」
最後に腐敗の進行を抑える薬品を全身に塗ってから部屋を出た俺に、
リディンは皮肉交じりにそう言った。
「何がだ?」
「……よくもまあ顔色一つ変えずに素手で死体に触れるもんだな? お前たち死体装飾士にとっ ちゃ仏さんもただのモノ扱いか?」
死体装飾士――その名の通り、死体を装飾することを仕事にしている人間たちの総称だった。
毒殺した人間を寿命に見せかけたり、
さっき俺がしたように組織同士の抗争で死んだ人間を事故死体に偽装することが、
主な仕事内容だ。
世界間における戦争―――[ 大戦 ]が終わったとはいえ、
いまだに平和なんてモノは訪れてはいない、そんな世界だからこそ成り立つ職業。
「……さあ…」
短く答えると、俺は帰り仕度を始めた。
そんなこと、考えたこともない。
正確に言うなら興味を覚えたこともない。
ただ、そこにある存在。俺にとって死体はそういうモノだった。
気がつけばすぐ横に女の死体が転がっていたこともある。
その時も、ただ邪魔だと思っただけだ。
埋葬するのも面倒だったのでそのままにしておくと、二、三日して腐り始めたから、
俺は仕方なくその場所を捨てたのを覚えている。
「ほら、今回の報酬だよ」
差し出された札束を無言で受け取る。枚数を確かめる必要はなかった。
生きるためにこの“作業”をしているわけではないのだから。
「またクスリに使うのかい?」
「さあ……」
それもいいかもしれない。アレは生きる苦痛を忘れさせてくれる。
使った直後は快楽が、そしてしばらくすれば禁断症状の苦しみが。
そのどちらも、俺には歓喜に感じられる―――それが現実からの逃避だとしても。
「じゃあな、ギルィ=ストーク。ほどほどにしとけよ?」
リディンの声をあとに、俺はその屋敷をあとにした。
外は雨だった。
さほど激しくはないが、どんよりと曇った空から無数の雫が降り注いでくる。
外套の上に幾つもの水滴がこぼれ、少し遅れて地面に転げ落ちる。
……どんな天気でも、晴れているよりはマシだ。
晴れていればあの空を見なければならない。
ぼろぼろに汚れきった、茫洋としたあの空を。
[ 大戦 ]末期に多用された長期殲滅用の戦略級兵器は、
大量の命とともにこの世界から空を奪っていった。
この世界に、“青い空”なんて理想はない。
そこにあるのはただぼんやりと、
黒とも灰色ともつかないさまざまな色が混じりあった仮初めの空。
「………ん?」
どこにでもあるような路地裏をいつものように通り過ぎようとしたとき、
妙な気配を感じて俺はその場に立ち止まった。
路地裏の奥の方を覗き込んでみると、なにか数人の人影が見える。
男が三人に、女―――しかもまだ幼さの残る少女が一人。
「またか……」
そう珍しい物でもない。
それどころか廃棄街と呼ばれるこの街では日常茶飯時といってもいい光景だ。
どうやら少女の方はクスリを打たれているらしい。男の行為を未熟な身体で受け止め、
それどころか快楽すら感じている。
あの手のクスリは長期間に渡って身体を蝕む。
体と心の両方を弄ばれ、その後は娼館に売り跳ばされるか、
それとも完全な薬物中毒にされるか。
どちらにしてもクスリを打たれたときに少女の、少女としての時間は終わっている。
後に残されているのは、底の無い虚脱だけ。
堕ちるところまで堕ちきったときに、初めて少女は開放されるのだろう。
墜落を始めたこの裏路地に、ただの肉塊になって。
「はぁっ、あっ……」
男が身体を動かすたびに少女の身体がビク、と痙攣するように跳ねる。
ふとした拍子に少女の顔がこちらを向いた。
「あ……」
助けを―――救いを求めるような深い緑瞳が俺を見る。
「………」
俺は無言で外套の中に手をやった。
冷たい雨のなかでもなお冷たさを湛える金属が手に触れる。
どこか懐かしい感触が手の中に宿る。
くすんだ銀が雨に濡れ、滑らかに光を放つ。
取り出した銀の銃身は、ほかの何よりも傷だらけの手に馴染んだ。
銃口をそっと路地裏の奥に向ける。
その先の少女が、微かに笑ったような気がした。
―――俺の手から鉛四発分の重さが失われ、路地裏に死体が四つ増えた。