Torso



          〇          〇



 いつも違う景色。

 いつも同じ色彩。

 気づいたのはいつのことだっただろうか。

 これは俺が失ったものだ。

 この仮初めの身体の一欠片にまで刻み込まれた断罪の記憶。

 腐り果てたこの身体の無数の傷が俺を責めたてる。
  
 たった。

 たった一言。

 その一言さえも、俺は思い出せずにいる。


/人形‐Doll〜第三章




 不機嫌な空がうっすらと紅く染まっている。

 空を舞う遮光性の粉塵はときにこうして太陽の光をこちら側に届けることがある。

 幾度にも反射を繰り返された夕陽の光は錆びた赤銅に浮かぶ斑のようであり、

 俺は無意識に顔をしかめた。

 旧市街。

 犯した罪の重さを忘れるため、人々が創りだした退廃的な街。

 道往く人々の喧騒、軒並を連ねる様々な店。

 少し見ただけなら活気ある街に見えなくもない。

 だが―――少し注意すればすぐに感じ取ることができる。

 この街を覆う、平穏と云う名の絶望を。

 皆一様に疲れた果てたような醒めた笑みを浮かべ、前に進むことなく無為に日々を過ごす。

 [ 大戦 ]が残した、癒えることのない病巣。

 ふさがることのない傷。

 この星は死んだ―――

 大戦末期に、ある科学者はこう言い残して自殺したという。

 人間は、星を滅ぼした後もこうして生きている。

 誰かが後ろから肩にぶつかり、何も言わずに駆け去ってゆく。

 その少年の手には、ぶつかったときに外套から掴みとられた札束が握られていた。

「………」

 俺の手が無意識のうちに懐に伸びて―――止まる。

 ふと振り向くと、翡翠の視線が俺を見上げていた。
 


「よお、珍しいなギルィ。あんたに連れがいるなんて」

 裏路地にある一軒の薬屋。

 扉を開けるとウインドベルが場違いに澄んだ音をたて、店の主人がこちらを向いた。

「で、何が今日はどうしたんだ?」

「弾丸を3パックとカルシウムワイヤー……それといつものやつを」

「おう、ちょっと待ってな」

 そう言うと、主人は奥の棚を探り始める。

 ふと下を向くと、少女は無表情に俺を見上げていた。

 何の感情も見られない、怜悧な瞳。

 あの“庭”で目醒めたあと、この少女はずっと俺の跡を付きまとっていた。

 水槽の中で見た穏やかな微笑みは消え、代わりに仮面のような無表情を浮かべている。

 それはとても俺に相応しいものに思えた。

 そう。

 あの暖かく、安らぎすら感じるような笑顔は。

 オマエのようなモノに向けられるべきではないのだと。

 頭の片隅で、誰かが優しく嗤(ワラ)っている。

「タマ3に、Cワイヤーの5号、っと。
 
 そうそう、いつものヤツも良いけどな、新しい“痛み止め”が入ったんだ。どうだ?」

 そう言って中年の主人は、並べた紙袋の横にニヤニヤと笑いながら小さな小包を置いた。

「………」

「アップ系の新作だって話しだ。お試し用ってやつだよ。代金は次からでいい」

 何の文字も印刷されていない、くすんだ白い紙包み。

 俺は無言でそれを受けとった。



 うねる世界。

 砕けては蘇る歪んだ景色。

 軋轢(アツレキ)のような視界。

 陰鬱な吐き気。

 戦いの最中(サナカ)のような高揚感。

 赤銅の空。

 螺旋を描く廃雲。

 狂ったように笑いながら泣く人影。

 どくどくと流れ落ちる血流。

 首の跳んだ死体が蘇生し、再び断頭台に向かう。

 何度も何度も治る手首を、何度も何度も喰い破る。

 紅い血が流れて、漆(クロ)く濁って、斑になって。

 滴る脳漿。
 干からびた骨。
 裂かれた灼痕。
 散らばった手足。
 伽藍の髑髏。
 壊れた視線。
 千切れた肉片。
 崩れかけた臓腑。
 腐った胎児。
 ささくれた傷。
 穿たれた孔。
 潰された指。

 赤い赭い緋い銅い淦い朱い絳い赧い赫いアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイ
 アカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイ
 アカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイアカイ―――


 ソレハ/トテモ/アカクテ/キレイデ/ヤサシクッテ


「ぐ……ごほっ、…ァァァ…ァ……!!」

 脳髄を刺す激痛。

 灼けるような悦楽。

 肺腑にこびりつく痺れ。

 凍るような快感。

 全身を駆けめぐる倦怠。

 溶かすような愉悦。

 色を捨て去った眼差し。

 忘却という悦びをもたらす。 

 ―――それはひどく甘くて。

 とても、優しい陵辱。



「―――っはあっ、はぁ、はぁ…」

 弾けるように眼を開いた俺は、朦朧とした意識のまま辺りを見回した。

 掃き溜めのようで、何もないくせにかすかな屍臭が漂っている。

 壁に描き殴られた罵倒の文字。

 染みついた汚濁の跡。

 ああ。

 ここは。

 ほかのどこでもない。

 慣れ親しんだ、安らぎすら覚える、薄汚い、路地裏。

「はぁ…はぁ……」

 それに気づくと、だんだんと呼吸も落ち着いてくる。

 薄暗い―――見上げると闇海に浮かぶ、水母のように淡い月。

 いつの間にか赤斑の空は消え、いつもと同じ漆夜になっていた。

 壁に背を預ける。

 ふと傍らを見ると、小さな注射器が転がっている。

 見慣れた使い捨ての注射器。

 中にはまだ少し液体が残っている。

「そう―――か……」

 茫洋としてはっきりしない記憶を手繰る。

 薬屋の主人が新作とか言ってたあのクスリ。

 本来は飲用であろう黄色い錠剤を、砕いて水に溶かして打ってみた。

 意識を失ったあげく、あれから数時間をうなされてすごしたのだろう。もしかすると、

 死にかけたのかのしれない。

 当然だ。

 そのまま飲んでも充分な効果があるであろう強力な麻薬を、

 こともあろうか血管に流したのだから。

「ぅ………」

 染み透るような壁の冷たさが火照った躰に心地良い。

 胸に残ったのは虚しさと、微かな悔恨と。

 また死ねなかったのだという、愚かにも程がある事実。

 もう一度ため息を漏らし、俺は立ち上がろうとして―――無様に倒れた。

 やはりまだ回復はしていないらしい。

 クスリが残っていたのか、くらくらと眩暈までしてくる。

 昏迷に薄れ逝く意識の中。

 さっきからずっと感じていた翡翠の玲瞳が、微かに揺らいだ。

「お前か……」

 ―――俺を、じっと見つめていた視線は。

 そして視界が暗転する。

 詩的な云い方をするなら霧幻の闇へ。

 もっと相応しい表現をするなら、底無しの奈落へ。



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