Torso


        〇          〇


 朝靄が漂う旧市街はひどく閑散としている。
 変わらない斑の雲の下、薄暗く淀み乾いた空気。
 人気のない通りを歩きながら、思う。
 なぜ自分は生きているのか。
 意味もなく、目的もなく、なぜ生きているのか。
 ただの惰性……で片付けてしまえばいいのかもしれない。それも真理の一つとして成り立つ。流されて生きているというのは他の何よりも今の自分には相応しいのだと、思う。
 なら他の人間はどうなのか。

 死体の山から見下ろしたあの兄妹は?
 あの神父は?
 さっき出会ったばかりの姉妹は?

 立ち止まり、振りかえる。
 予想していた通り、足音も気配も希薄な翡翠の少女は一定の間隔をおいてそこにいた。
 感情の見えない緑瞳をこちらの向けて、ただそこにいる。
「お前は―――」
 なぜ、生きているのか―――問おうとして、言葉は途中で止まった。


                                

/濁り−garbage〜第一章




 いつもと同じ動作。
 いつもと同じ作業。
 慣れきった過程には淀みなど生じない。
 ただ自動的に、機械のようにこなしているだけ。


「へぇ……流石はリディンの紹介だね。見事なもんだ」
 ミハイルと名乗ったまだ幼さの残る少年は、たったいま俺が装飾を終えたばかりの死体を見て感嘆の息を吐いた。中肉中背、白髪に赤い瞳。印象的な風貌を持つ白子の少年は廃棄街の半分を支配している組織[ アルト ]のトップであり―――同時に三人しかいない教会の最高幹部、枢機卿の一人だという話だった。
 ……この少年が何者だろうと興味はないし、賛辞はそれよりもさらに興味がない。
「報酬は?」
「世辞で言ったわけじゃないよ?……うん、わかってる。すぐに払うさ。その前にもう一つ仕事を頼みたいんだ」
 最初からそのつもりだったのだろうことくらいは、二つの組織のトップに立つ者が死体装飾士如きの前に姿を現したことからわかっている。
 俺が黙って頷くとミハイルは満足げに葉巻を取り出して火を付けた。
「一人……いや、一匹かな? ま、それはどうでもいいか。殺して、その死体を標本にしてほしいんだよ。君たち流に言えば研磨だっけ」
 紫煙を吐き出し、少年は笑顔で続ける。
「ただし殺すのは僕がそれで遊んでからだ―――君にしてほしいのはまずそいつを確保して僕の所に持ってくること。そして僕がそれに飽きたらそいつを標本にすること」
 もったいぶった演出の割りにはくだらない依頼だった。
 いつもと変わらない仕事。
 ただそこに幾つかの要素が泥のようにこびりついているだけ。
 無言でもう一度頷くと、ミハイルに背を向けて俺は扉に手をかけた。
 去り際にミハイルがくすくすと笑う。
「旧市街七番街。裏路地の並びに住んでるんだって。ま、目立つだろうからすぐに解ると思うよ。
 ああそうそう、一応の忠告だけど、気をつけたほうがいいよ、ギルィ=ストーク」
 最後まで聞かずに扉を開き、一歩踏み出す。
「何せ相手は天使さまだからね」
 ばたりと扉が閉まり、その言葉は耳にだけ残って散った。


 リディンはいつもの酒場にいた。
「大戦時に主要兵器として運用されていた補助型生体兵器だよ」
 隣りに座ったと同時に、こちらに顔を向けることもせずにリディンは言った。
「それ自体の力ってのは体内の器官で発電が出来るってことだが…なんでも、ある兵器の補助ユニットの一部として作られたらしい。名前の由来は機能発動の際、余剰電力の放電で背中に翼のようなものが現れるからだとよ」
 どこか苛立たしげにグラスを一息に飲み干す。
「何か気になることでもあるのか?」
「わかりっきってるだろ、んなこと……あのな。天使狩りだぞ? 旧時代の生体兵器を、しかも生け捕りだなんて気が狂ってるとしか思えんね」
 なんでこんな依頼受けたんだか―――ぶつぶつと呟くとリディンはグラスをカウンターに突き出した。寡黙な店主は何も言わずにそこに新たな酒を注ぐ。
「……いつもと同じことだ。何も変わらない」
 ただそこに死ぬかもしれないという要素―――死ねるかもしれないという期待にも似た感情が混じっていることだけ。
 たったそれだけでしかない。
「………なあ、ギルィ」
 少し落ち着いたのか、リディンの声はさっきよりも穏やかだった。
「……なんだ」
「お前は、死ぬのが怖くないのか?」
 死。あの神父が逃れようとしていたもの。誰もの終局にあり、等しく恐れられるもの。対の極にある一つの概念。
「さあ。知らない」
 心からの本心で、そう答える。
 体験したことのないものに、どういう感情を向ければいいかなんてわからないから。
「ああ―――そうか」
「ん、どうした?」
「いや。なんでもない」

 何にも感情を向けられない自分。
 何もかもが希薄な自分。

 それはきっと、俺が何も知らないからなのだろう―――。

 足音は二つ。
 相変わらず無言のまま、翡翠の少女が少し遅れて歩いている。
 七番街。旧市街の入り口から七番目にある通りの並びがそう呼ばれていた。
 正式な名前ではない。この世界で正式な地名を持つ場所などとうの昔になくなってしまっている。どこかの誰かが言い始め、それが通称になってしまっただけのこと。
 そこの入り組んだ裏路地を、俺はあてもなく歩いている。
 あれからミハイルからの連絡はなかった。七番街に住んでいるらしいということ以外、いつまでにという期日でさえ告げられていない。
 あの少年にとっては道楽でしかないのだろう。少なくとも、いつまでにという決め事をしなくてもいい程度には。
 不意に背後の足音が止まった。
「動くな」
 やや甲高い声に振り返ると、薄汚い服の禿頭の男がこちらに銃を向けていた。もう片方の腕は翡翠の少女の身体に回されている。
「動くなっつってんだろうが! 次に動いたらアンタの連れに何があってもおかしくないと思うんだな」
 癇癪を起こした子供のような声で叫ぶ。人質のつもりらしい。
 どこにでもいる種類の人間だ。この一見平穏な街でも例外ではない。ただ表に出てくるか出てこないかの違いでしかない。
 少女はされるがままで特に抵抗しようともしない。意思の感じられない緑瞳は、相変わらずじっとこちらを見ている。
「いいな、変なマネをしようとするなよ? 大人しく金さえ渡せば見逃してやる」
 少女の身体を盾にするようにこちら側に向ける。
 ため息を、ひとつ。
 そして男が次の言葉を発する前に、外套から銃を取り出し、男に向けた。
「てめえなんのつもりだ!」

 微かに浮かんだ些細な疑問は、この男はなぜ俺がこういった行動に出ているのか本気でわかっていないのだろうかという、それだけだった。

「チッ―――!」
 小さな舌打ち。男の指に力がこもるのがわかる。だが遅い。俺より早く撃つためには、決定的にその動作は手遅れだ。
 僅かな躊躇の差。
 男が遅かったわけではない。
 俺が、少女ごと男を撃つことに躊躇わなかっただけ。
 ……声が響いたのは、緩い引き金にかかった指に力を込めようとしたそのときだった。
「な、何してるんですかっ!」
 買い物帰りなのか、茶色の紙包みを両手で抱えたどこかで見た少女が唖然とした表情でこちらを見ている。
 もう男は何も考えていないようだった。連続して起こる予想外の出来事から来る怒りをぶつけるためだけに、銃を向けられているということも忘れて振り向いて銃口を向ける。
 その行動に少女は紙包み包みをぎゅっと抱きしめ、僅かに恐怖の色を浮かべながら、それでも男をにらむ。
 刹那―――大気が、爆ぜた。
 少女の背から弾ける勢いで鋭い光が吹き出る。
「―――――――――ぁっ!」
 無音の暴力に晒された男が悲鳴一つ上げられずにビクビクと痙攣しながら崩れ落ちるのとほぼ同時に、少女の背から噴出した光が砕ける。

 まるで、舞い散る羽根のように。







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